長嶋茂雄の凄さ・名言&迷言まとめ!現役時代の成績と引退後の活躍は?

巨人の4番打者として活躍し、選手引退後も監督として巨人を勝利へ導いた長嶋茂雄。

ユーモラスな性格や、独特な言い回しをすることでも有名で、野球以外の場でも老若男女に愛されてきました。

今回は、長嶋茂雄の現役時代の成績や凄さがわかるエピソード、名言&迷言をまとめました。

長嶋茂雄の現役時代の成績


1958~1974年の間、4番打者として活躍してきた長嶋茂雄は巨人のV9に大きく貢献。

巨人軍での4番出場試合数は、歴代最多記録となっています。

勝負強さや意表を突くプレイで人気を集め、”ミスタープロ野球”と呼ばれてきました。

 

また、大学を卒業した日本のプロ野球選手では、史上初めての400本塁打と2000安打を同時に達成しています。

セ・リーグでは最多記録となる、首位打者を6回も獲得するなど、様々な記録を残しました。

通算成績

出場試合数:2186

打率:.305

安打:2471

本塁打:444

盗塁:190

タイトル

MVP:5回(1961,1963,1966,1968,1971)

首位打者:6回(1959~1961,1936,1966,1971)

本塁打王:2回(1958,1961)

打点王:5回(1958,1963,1968~1970)

新人王:(1958)※打点王との同時受賞は史上初

長嶋茂雄の凄さ


長嶋茂雄が登場する前の日本のプロ野球は、今のように国民から愛される人気スポーツではありませんでした。

当時は「野球=遊びでお金を稼いでいる」というイメージが持たれており、どちらかというと野球は世間から蔑まれていた存在でもありました。

しかし長嶋茂雄は野球のネガティブなイメージを払拭し、国民的スポーツに変えた人物といわれています。

大舞台でも結果を残す勝負強さ

勝負強さ
現役時代は多くのタイトルを獲得してきましたが、長嶋茂雄の最も注目すべき点は”勝負強さ”だと言われています。

勝負強さを証明する代表的な試合として、今までにたった一度しか実現していない天覧試合が挙げられます。

プロ野球界初の天覧試合

1959年、甲子園球場に昭和天皇皇后両陛下を迎えて、巨人対阪神戦が行われました。

初めての天覧試合ということで、選手や関係者の緊張は大変なものでした。

当時の巨人軍監督である水原円裕も、当日は緊張からか口数少なく、朝に2度も冷水を被って身を清めて試合に備えたと言われています。

 

場内での鳴り物応援は禁止され、とても静かで異様な雰囲気に包まれた球場で行われた試合。

3回表で阪神が先制点を挙げ、5回裏で巨人が2点取って逆転し、6回表で再び阪神が3点を入れて再逆転。

7回裏では巨人の王貞治の本塁打で4-4の同点に追いつき、そのまま9回を迎えました。

 

両陛下が観戦できる時刻は21時15分までと決まっており、9回裏の巨人の攻撃が始まるときには21時を過ぎていました。

同点のまま延長戦に突入した場合、両陛下に試合の結果を見届けてもらえないことに加え、中継している日本テレビの放送時間も21時15分まで。

関係者たちは「先頭打者の長嶋茂雄に頼るしかない」と願ったといいます。

劇的なサヨナラホームラン

そして21時12分、長嶋茂雄が村山実投手からサヨナラホームランを放ち、5-4で巨人が勝利。

両陛下は試合を見届けた上で、球場を後にしました。

 

通常の試合とは違った緊張に包まれた球場でも、持ち前の勝負強さで期待に応えるプレーを見せた長嶋茂雄。

この劇的な長嶋茂雄のホームランを含めた初めての天覧試合によって、プロ野球が日本を代表するスポーツとして認められました。

”魅せる野球”を意識していた


長嶋茂雄は勝ちに拘るだけではなく、観客を楽しませるエンターテイナーな一面を持っていました。

代表的なエピソードは、

  • あえて大きめのヘルメットを被り、スイングした反動でヘルメットが飛ぶように演出
  • 簡単なゴロでも、ファインプレーにみせるために、あえてギリギリのところで捕球
  • 三振でもダイナミックにみえるように、常にフルスイング

など。

 

同時期に長嶋茂雄とともにプレーしていた王貞治は、長嶋茂雄についてこのように語っています。

技術に関しては長嶋さんより(自分のほうが)上だと確信している。

しかし、長嶋さんが私と違っていたところは、プロ野球を”見せる芸”として把えていた点だ。

日本のプロ野球の中で、見せる意識を持ってプレーしてきた選手は、後にも先にも長嶋さん以外いないのではないか。

 

長嶋茂雄は、観客がいてこそのプロ野球だと考え、例えその日が負け試合でも、ファンには「良い負け方だった」と思いながら家路についてほしいと願っていたのだそうです。

観客を意識したプレーは多くの人々を魅了し、野球をする子どもたちにも夢を与えました。

また、昭和時代の子どもが好きなものの代名詞として、「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語も誕生しました。

誰もが認める”努力の人”


2002年、長嶋茂雄はアテネ五輪日本代表監督に就任が決まりましたが、直前の2004年3月に脳梗塞で倒れてしまいます。

倒れて2日後に目を覚まし、医師から「寝たきりになるかもしれない」と言われながらも、「アテネに行く」という強い思いを持ち続けた長嶋茂雄。

落ち込む間も無く、倒れた5日後にはリハビリを開始しようとします。

 

しかし右半身に麻痺が残った身体で、長時間飛行機に乗れるような状態にはなく、日本代表監督としてのアテネ行きは断念。

長嶋茂雄は当時の心境を「悔しいなんてもんじゃなかった」と話しています。

オリンピックへの思いは消えなかった

しかし、オリンピックへの思いは消えることなく、「2020年の東京オリンピックに何らかの形で関わる」という新たな目標を掲げ、リハビリ生活を送りました。

そのリハビリの内容は激しく、まるで筋トレと見紛うほど凄まじいものだったといいます。

リハビリを続けた結果、東京オリンピックでの聖火ランナーの有力候補に挙げられるほど、体力や筋力は回復していきました。

 

しかし、東京オリンピックを2年後に控えた2018年に、再び体調を崩してしまい長期入院。

この入院でリハビリはストップし、退院後は車椅子生活が続きました。

 

それでも長嶋茂雄は諦めず、歩ける身体を仕上げるために集中的なリハビリを再開しました。

リハビリを傍で支えてきた理学療法士は、きついリハビリを継続する長嶋茂雄について、「全国の患者さんの鏡」と表現しています。

 

そして2021年に開催された東京オリンピックでは、王貞治と松井秀喜とともに開会式に登場しました。

選手、監督を引退しても、目標に向かって諦めない長嶋茂雄に、日本中が感動した瞬間となりました。

長嶋茂雄の引退後の活躍


長嶋茂雄は1974年に選手引退後、翌年の1975年に巨人の監督に就任しました。

しかし当時の巨人は、選手としての長嶋茂雄が抜けた穴を埋めることができず、監督1年目のシーズンは球団創設以来初の公式戦最下位となってしまいます。

翌年1976年と1977年はリーグ優勝を果たしますが、以降は低迷が続き、1980年成績不振を理由に監督を辞任しました。

再び監督に就任


その後、長嶋の監督復帰を望む声が球団内外に広まり、1993年に再び巨人の監督に就任しました。

監督に復帰した年は3位に終わりましたが、翌年1994年に日本シリーズ優勝を果たします。

1996年にもリーグ優勝し、2000年には再び日本シリーズに優勝しました。

2001年、シーズン終了とともに監督業を勇退しています。

監督としての通算成績

試合数:1982

勝利:1034

敗戦:889

引分:59

勝率:5割3分8厘

リーグ優勝:5回(1976,1977,1994,1996,2000)

日本一:2回(1994,2000)

長嶋茂雄の名言


長嶋茂雄はこれまで数々の名言を残してきました。

代表的な名言を紹介します。

「わが巨人軍は永久に不滅です」

わが巨人軍は永久に不滅です

こちらのセリフは、野球好きでなくても知っていると言われるほど有名な言葉です。

1974年10月14日の「長嶋茂雄・引退セレモニー」で発せられたこのメッセージは、50年経った今でもパロディに使われるなどして、多くの人に親しまれています。

 

長嶋茂雄は引退セレモニーの前に、「俺が(野球を)やめるのは次世代の野球少年に夢を託すことだから、最後の言葉を子どもたちが理解できないと意味がない」と話していました。

その思いから、子どもにも伝わるような言葉を選んで挨拶を考えたのだそうです。

 

球史に残るこちらの名言ですが、引退セレモニー前に考えていたものとは少し違っていたそうです。

スピーチの原稿には、「わが巨人軍は”永遠”に不滅です」と書かれており、本番では”永久”と言い間違えてしまったのだとか。

引退セレモニーという特別なイベントだけに、試合とは違う緊張感があったものだと感じさせるエピソードです。

「メークドラマ」


メークドラマ(Make Drama )」とは、長嶋茂雄が考えた造語です。

この言葉は、1996年の監督インタビューで発言されました。

 

この年の巨人は開幕から調子が上がらず、ゲーム差は最大で11.5ゲームまで広がり、「今年は巨人の優勝は難しいだろう」と誰もが思っていました。

しかし7月9日に行われた、首位を走っていた広島東洋カープとの試合で、9者連続安打で一挙7点を奪って試合に勝利。

試合後のインタビューで、この逆転劇を「メークドラマ」と表現しました。

 

そしてここから巨人の快進撃が始まり、11.5ゲームもの差を1か月半で縮め、いったん巨人は首位に立ちます。

その後再び広島に首位を奪い返されますが、すぐに盛り返し、巨人はその年のリーグ優勝を果たしました。

 

この劇的な流れと結果に、巨人が勢い付いたきっかけでもある7月の広島戦で発せられた「メークドラマ」は再び注目されることに。

1996年の流行語大賞にも選出され、巨人の大逆転を表現する言葉として定着しました。

 

長嶋茂雄が監督を退任後も、メディアよって「メークミラクル」「メークレジェンド」「リメイクドラマ」などの言葉が生まれるなど、形を変えながらも多くの人が耳にする名言となりました。

「野球というスポーツは人生そのもの」


長嶋茂雄が巨人の監督を退任するときの会見で、記者からは「長嶋茂雄にとって野球とは?」という質問が投げかけられました。

その質問に対して長嶋茂雄は、「野球というスポーツは人生そのもの」と答えています。

日本の野球界の発展においても、長嶋茂雄の貢献は非常に大きいものでした。

自分の人生と野球を一体化させてきたからこそ、数々の伝説を生み出すことができたのではないでしょうか。

数々の心に響く名言

他にも心に響く名言がたくさんあるのでご紹介します。

スターというのはみんなの期待に応える存在。でもスーパースターの条件は、その期待を超えること

なぜ逃げるのか。打たれて命を取られるわけないんだ。逃げるな。

努力は人の見ていないところでするものだ。努力を積み重ねると、人に見えるほどの結果がでる

自分より練習した人はいない。そう考えると怖くなくなる。すると楽しくなる。

努力していますと練習を売り物にする選手は、プロフェッショナルとは言えない。

野球選手には人間関係で悩む暇などない。全てはバットを振り、ボールを追いかけることで解決するべきなのだ。

プレッシャーを楽しいと思った時、その人間は本物になれる。

人生はトータルだもの。1年や2年の勝負じゃないよ。

様々な大舞台を経験してきた長嶋茂雄だからこそ、たくさんの名言が生み出されてきました。

これらの言葉は野球に関する内容が多いですが、仕事や生活など様々な場面で活きてくる言葉としても捉えられます。

長嶋茂雄の迷言


長嶋茂雄には、カッコいい名言とは対照的な、思わず笑ってしまう迷言が多いことでも有名です。

野球に纏わる迷言

この試合は、1点でも多く取った方の勝ちでしょうね。

今年初めての開幕戦、始まりのスタートだ。

開幕10試合を7勝4敗で行きたい。

ジャイアンツの監督は大変。毎日がジャイアンツ戦ですから。

彼は1年目のルーキーです。

夢のドリームゲームですね。

遂に閉幕を閉じる時期がきましたね。

バァッといってガーンと打つんだ!

何事も諦めるな。人生はギブアップだ。

打つと見せかけてヒッティングでいけ。

この野球は家に帰って風呂に入るまで結果はわからない。

(敵に向かって)「ナイスホームラン!

野球以外での迷言

ラッキーセブンの3

初めての還暦を迎えまして。

疲労からくる疲れ

失敗は成功のマザー

英語でベースボールって何て訳すの?

ミートグッバイ」(肉離れの意味?)

(人の100円玉を間違えて持ち帰り)「ごめん!俺の100円玉に似てたから!

(「蛍の光」を聴いて)「君が代はいいですね。僕も日本人だなあ。

(アメリカに来て)「こっちの子は英語がうまいなぁ。

(アメリカでマクドナルドを見つけて)「アメリカにも進出してるんだなぁ。

(アメリカで車を見て)「こっちは外車ばかりだねぇ。さすがアメリカだ。

(長嶋茂雄と同じ誕生日だという人に対して)「へぇ、それであなたの誕生日はいつ?

長嶋茂雄の言葉で和製英語が多用されている理由としては、語学堪能な妻の亜希子さんからの影響が大きいと言われています。

妻から教えられた知識と、長嶋茂雄なりの解釈が入り混じり、迷言として発せられているようです。

数々の天然エピソード

迷言とともに、天然な行動が多いことでも知られています。

ビートたけしとのゴルフの約束


長嶋茂雄が知人を介して、ビートたけしをゴルフに誘ったときのこと。

ビートたけしは野球界の大物からの誘いに、前日は一睡もできなかったそうです。

 

しかし当日、ゴルフ場で顔を合わせたビートたけしに対して、長嶋茂雄は「たけしさん、ゴルフですか?誰とですか?」と声をかけたのだそう。

すっかり約束を忘れていた長嶋茂雄に対して、ビートたけしは「ちょっと待ってよ・・・」と困惑したと話しています。

その後、長嶋茂雄は「ごめん、僕だったよね」と約束を思い出し、無事に2人でゴルフを満喫したのだそうです。

球場に息子を忘れる


長嶋茂雄の長男・長嶋一茂が小学2年生の頃に、親子で野球観戦の為、甲子園球場に訪れたときのこと。

試合に没頭した長嶋茂雄は、一茂の存在をすっかり忘れてしまいます。

そしてそのまま、試合終了後に1人で帰宅してしまったそうです。

帰宅した長嶋茂雄に、妻が「一茂は?」と尋ねたことで、球場に置いて帰ってしまったことに気付いたのだとか。

 

他にも長嶋茂雄の大学時代、教員に「I live in Tokyo.」を過去形にするよう言われ、「I live in Edo.」と答えたというエピソードも。

あまりにも天然が過ぎる長嶋茂雄に、教員の間では「長嶋を指さない」という影のルールがあったという話もありました。

長嶋茂雄は日本プロ野球界を引っ張ってきた国民的ヒーローですが、数々の天然エピソードや迷言からは親しみやすさも感じられます。

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